かいどぅ

日記など

クリープハイプのABCDCが好きだ

クリープハイプのABCDCという曲が好きだ。歌詞も曲も。この曲のメロディとかリズムとかそういう楽曲分析は別の人に任せるとして、おれは歌詞に対する解釈を(他の方が書かれているブログを参考にしつつ)書いていこうと思う。

歌詞の解釈を書くというのが結構好きだ。誰かが書いた歌詞の意味を自分の頭で消化しきって、文章に起こせることが滅多にないぶん。詞という表現は抽象的なものが多いから、その詞の意味することを捉えることは難しく、大体の場合未消化なままなんか雰囲気がいいなとか、それこそ”世界観が....“とか、そういう感想で終わってしまう。(世界観という言葉を褒め言葉に使ったことは、クリープハイプに出会って以来一度もないけど)

あと、同じ歌詞でも、自分と他の人だと捉え方が違うことが(当然)あって、そういうときに”ああ自分はこのバンドの曲をこういう風に受け止める人なんだ“と自分の感性の特徴を自覚できる。それが好き。自分の感受性は、自分の創作物より、他者の創作物に触れて自分が抱いた感想と、他の人が抱いた感想の違いによく表れると思う。他人と自分を比べることで、何がみんなと同じで何が自分固有の特徴なのかがわかる。

話がそれた。

Aメロにもならない人生をぶらさげて過ごす眠れない夜って、どんな夜だろう?失恋とか、もしくは仕事とか学校でヘマして不甲斐ない思いをした日の夜?ここだけだとわからない。

でも、次にくる歌詞から察すると、主人公は恐らく好きな人と別れて感傷的になってるんじゃないかな。辛くて眠れなくて、せめてもの抵抗で目を閉じてみるけど、瞼の中に(観念的ではあるけど)好きな人の笑顔がみえて。好きな人の笑顔ってすごく魅力的だから、それを目で追ってしまって余計に眠れなくなってしまった。(好きな人、とか何回も書くの恥ずかしいな...)

瞼の、裏だっけ、中だっけ、どっちかわからなくなって検索したら瞼の中だった。瞼は目の蓋という字で書かれることもある。もし尾崎世界観がそこまで意図して歌詞を書いていたら感動する。瞼を単なる目の覆いものではなく、そこから一歩先にふみこんで目を閉じ込める蓋ととらえる。簡単に誰かに触られたくないから何かを蓋にいれるのであるし、蓋に入れるものは大事なものか迂闊に触る分には危険すぎるものだ。もし失恋に姿形があったらほとんどの人は蓋をするだろうし、それも自分以外開けることのできない、まさに瞼みたいな頑丈な蓋だと思う。

音楽において、歌詞でえがかれる物語はAメロから始まる。歌のAメロを物語のスタートラインととらえるなら、Aメロにもならない人生とはきっと、好きな人が存在しなくなった、到底受け入れられない、これからの人生のことを指している。

帰れない夜、というワードもよくわからないから、つづく歌詞から具体的にイメージを掴む。ドロドロした昼ドラというフィクション作品に昇華することもできないくらいに、だらしない恋愛関係を主人公はもっている。さっきの眠れない夜を過ごしていた時期とは場面が切り替わっているようにも思える。だけど別れたことで傷ついた心はまだ治り切ってないことが続く歌詞からうかがえる。

(失恋で寝付けなくなるほど)真剣に、好きな人とこれまで向き合ってきた主人公だからこそ、生半可な気持ちで続けている恋愛で心の穴を埋めることはできないはず。だからかさぶたがまだ剥がれ切って傷口がなくなることがない、もしくは自分でかさぶたを何度もいじって完治することがいつまでもないのだと思う。

帰れない夜というのはいろいろな受け取り方ができるけど、おれは単純に、誰かの家でワンナイトして帰れなくなっちゃったよという意味だと思う。

何も思いつかなかった末、いい加減なことを言ってしまった相手は誰だろう?ノリでワンナイトしてしまった相手とトラブルになって苦し紛れの弁明をしている、もしくは別れてしまった好きな人に見せられないほどだらしない今の自分に嫌気がさしているけど、ずるずる続いている人間関係から抜け出す気力もないから、それらしい理由づけ、つまりいい加減なことを考えて自分を納得させている最中ともとらえれる。

そのいい加減なことをBメロにするとはどういうことかは、今のおれの想像力ではわからない。単純にBメロという言葉の語感がいいからここの部分で使っているんだと思う、この曲は全体を通して尾崎世界観が曲のメタ的概念に触れていく構成だし。

というかこの世にある歌詞全てに意味がついてるなんてことはないので、全てに意味づけをするのは逆に野暮なこと。だから別にわからなくてもいい。尾崎世界観自身もインタビューやボクらの時代などで無意味な歌詞があること、メロディに文章を載せることによって、もともとの文章が持っていた意味が変化したり際立ったりして“歌詞”になっていく過程を話してくれている。

rollingstonejapan.com

文章をメロディに載せて歌詞にすることは、多くの人に文章が届く一方で、地の文が持っている意味をゆがめかねない。だから“とりあえずこれはBメロにして”というのは、意味のないいい加減なことを言ってもそれが“歌詞”という言葉として成立してBメロが完成してしまう、それくらい歌詞は音楽の力を借りている、という事実への皮肉なのかもしれない。(結局いらない深読みをしてしまうな)

頭の中に出てきた言葉に対して“サビにしてはちょっと地味で歌えなかった”と肩を落とすのはなぜ?ここで曲の視点が、Aメロで描かれている歌詞の中の架空の人物である主人公から、作詞をしている最中の、現実世界の人物尾崎世界観に移ったのではないかとおれは思う。失恋ソングを書いて、Aメロまではできたけど、その後につづく(メロディの持つ力をもってしても)いい詞が書けなかったことへの悔いを歌ってるんじゃないか。

サビに出てくる“2人”という言葉も、歌詞の主人公があえて第三者視点で自分と誰かもう1人のことを2人というのと、作詞をした尾崎世界観自身が、自分が生み出した物語のキャラクターたちをメタ視点で2人と呼んでいるのでは、後者の方がより自然ではないかと思う。いきなり歌詞の中のフィクション世界からメタ視点に移るのではなく、曲の最初から"Aメロ“とか"Bメロ”とか、メタ的概念を布石として置いて行って、徐々に架空のストーリーからボーカル本人のストーリーに移行する流れがきれいだと思う。

歌詞にはならなかったけど、そんな地味なストーリーを愛しいと思う。曲にならなかったことも決して取りこぼさない。人が気にならないことが気になるゆえに良くも悪くも小さなことにも目が行く尾崎世界観の性格の“良くも”の部分が表れてる素直な歌詞だと思う。

2番に入ると曲作りに対する不満を抱えているような歌詞が連発。2番Bメロでそれは最高潮に達する。(歌唱も喉に負荷をかけるような、自暴自棄になったような歌い方になっていますよね)

vocal-range.com

指3本分くらいの労働というフレーズについてはこのブログの方の解釈が腑に落ちた。指3本分くらいの労働、ライブハウスにノルマを払うためのアルバイト。尾崎世界観はバイト バイト バイトや自分の小説などでライブハウスの高額ノルマで味わった苦痛をえがいている。そんな苦痛に耐えて耐えてやっと勝ち取ったのは一曲しかできないライブだったのだろうか、サビ3回分位の感動というフレーズにはそんなことを勝手に頭で考えてしまう皮肉さを感じる。

この曲全体にあるテーマは未消化感だと思う。尾崎世界観が作った物語の主人公が抱えている消えない失恋の痛みや切るタイミングの見つからないだらしない人間関係、そしてその物語自体を最後まで完成させられなかったこと、壁にぶち当たった作詞作曲、ライブハウスに高額ノルマを払うためにバイトをするやるせなさ。でもくすぶってるわけにもいかないから、未消化な現状すら曲にして“その先へ進む”しかない。そうやって蓄積したフラストレーションを一気に爆発させるような最後のサビ入りの、人が泣く直前のような一瞬の震え声がこの曲の中で一番好きだ。

歌詞に出てくる“手紙”の意味はよく掴めない。無理やり意味を与えるなら、ライブのアンケート?そう捉えると、メアドの書いてないアンケート用紙は全部ゴミだったと本の中で尾崎世界観は書いていたけど、ゴミの中から見つけた気持ちのこもった手紙を自分の手の届くところに仕舞っている優しさが表れている歌詞だなと思う。愛しい、という言葉もクリープハイプではあまり見ない素直な言葉で、何もかも不完全燃焼な中でも失われなかった、バンドの大切なファンに対する敵意や下心なしの感謝の気持ちが表れているなあと感じるのです。

この頃のクリープハイプには、怒りや不甲斐なさを忘れることを決してせず、食らった悔しさを曲にして返す、今でも変わらない反骨精神が特に強く現れてると思います。おそらくメジャーデビューした直後でインディーズ時代と比べて周りの環境が整って、劣等感を昔よりも感じにくい時期だったからこそ、自分の原点である怒りをファーストアルバムに刻みつけて忘れないようにしたのだと考えます。悔しさに全力で反発することは泥臭いんじゃなくて真っ直ぐでカッコいいんだと思わせてくれる大好きなバンド。辛いときにはいつもクリープハイプに助けられています。